3/01/2024

毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績

橋の下の毘沙門天 すくってお堂に 




 志手の毘沙門堂については上のような言い伝えがあります。


 ウィキペディアを見ると、上の言い伝えにある島津氏と大友氏の戦いは「豊薩合戦」と呼ばれ、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行われたとあります。

 ちなみに大友氏は豊薩合戦以前にも島津氏と戦って大敗(耳川の戦い)しており、その力は急速に衰えていったようです。そのため、島津氏の豊後国侵入を許し、本拠地の府内も戦火に見舞われることになりました。

 その様子が江戸時代に書かれた「豊府紀聞」にあります。
 

 漢字だけの文章は難解ですが、「府内に島津家久が入って」などと書かれていることは読み取れます。

 「豊府紀聞」には志手の毘沙門さまと毘沙門堂の由来についても記述があります。これは後ほど紹介するとして、ここで注目していただきたいのは、上の二つの「豊後伝説集全」「豊府紀聞」に共通するものです。

 上の写真の豊府紀聞の復刻版が出版されたのは1930(昭和5)年9月です。復刻版は限定55部の非売品で、発行所は「郷土史蹟伝説研究会」。そうです。「豊後伝説集全」を出したのも郷土史蹟伝説研究会でした。

 1932(昭和7)年6月に出版された豊後伝説集全には市場直次郎、波多野宗喜、十時英司の3人の名前があります。豊府紀聞(復刻版)には市場、十時両氏の名前がありました。

 郷土史蹟伝説研究会は十時氏や市場氏が中心になって作ったのでしょう。さまざまな形で大分の歴史を記録しておこうという十時氏らの強い意欲が感じられます。

 十時氏については、このブログ「大分『志手』散歩」の「毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動」で、少し紹介しました。

 十時氏は1940(昭和15)年6月の豊州新報に「大分市郊外 志手の毘沙門堂物語」を連載しています。

 その中でお堂の毘沙門天像を調査し、造られたのが南北朝時代の「正平」年間(1346~1370年)ではないか、との推理しています。
 
 十時氏らが残した資料はこのブログの筆者にはとても貴重なものです。志手の歴史の一端を知る手掛かりになっています。

(このあとは「続きを読む」をクリックして下さい)


 
郷土史蹟伝説研究会は大分県立第一高等女学校内にありました。

 

 今は大分県庁舎があります。旧制大分第一高女は旧制大分中学などとともに現在の大分上野丘高校の前身です。

 十時氏や市場氏は第一高女の教員だったのでしょうか。

 というのも「豊後伝説集全」に収められている県内各地の民話について、すべてその材料を第一高女の生徒に求めたと書いてあります。生徒から聞いた内容を適宜取捨添削しながら、3年間かけて一冊の本にまとめたということです。

 とすれば市場氏らが教員と考えるのが自然に思えます。市場、十時両氏は他にも著作があるようです。両氏についてはもう少し詳しく調べて、改めて紹介する必要がありそうです。
 

 さて、話が横道に逸れましたが、最後に「豊府紀聞」にある志手の毘沙門天像についての言い伝えを紹介しておかなければいけないでしょう。


 豊府紀聞には「椎迫毘沙門天」となっています。椎迫村は志手村の隣りにあります。

 正確に読み取れているのかどうか、もう一つ自信はありませんが、豊府紀聞に紹介されている話は以下のような内容ではないかと思います。

 毘沙門天の石像は椎迫の鉾田にあった。石像が安置されていた堂は壊れたままで再建されることもなく、石仏は風雨に晒されていた。

 村人はそれが仏像であることを知る由もなく、ある時「石磴」、つまり石橋や石段などの建築材料にしようと、石像を運ぶことにした。しかし、石像が重く、6人がかりでようやく運べるほどだった。

 まもなく石像を運んだ6人の親族に災いが起きて6人とも大いに恐怖するところとなった。

 そこで石像を元に戻そうとしたら、今度は軽い。1人でも運べるほどだった。石像は志手村内に捨てられた。

 それからしばらくした正保2年(1645年)に志手村の名主が藩主の許可を得て、お堂を建てて毘沙門天像を安置した。

 正保2年にお堂を設けて毘沙門天像をまつったという「豊府紀聞」の記述は誤解しようがありません。

 すると、志手の毘沙門さまは天正14年(1586年)から天正15年(1587年)の「豊薩合戦」後、正保2年(1645年)まで60年近く雨風に晒され続けたということになります。

 言い伝えが事実だとすれば、石像の傷みが進んでいるのも致し方ないことでしょう。
 

 

 

 

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